New 明日がある

 

「明日があるけど今日もある」・・何年も前のコーヒーの宣伝で見ました。なかなか面白いフレーズです。そのように、「未来を見なければならないけど、今をしのがなければならない」という人もいるでしょう。

 

「どうしても英検〇級に合格しなければ」、「TOEICで〇点取らなければ立場が危ない」という人もいるでしょう。それは分かります。「裏ワザとかテクニックを知りたい」という気持ちは理解できます。

 

でも、何のためにそれが必要ですか?。大学の推薦入学がしたいなら、その大学はなぜその英語の能力を求めるのですか?会社はなぜそのTOEICの点数を必要とするのですか?英語の論文を読み書きしたり、海外とのやりとりをしたり、そういうことが求められていて、その能力があるかどうかを測っているのではないですか?

 

実力以上の点数を表面上で取ったところで、あとで困ることは想像できると思います。どのみち、あとで勉強し直さなければならなくなります。であるなら、「いつやるか」・・「今でしょ」。表面上の点数を取ることだけを考える暇があったら、その間にほんとうの実力をつけることの方がずっと価値があります。

 

実力以上に粉飾する点数を取る方法を教えることが、その人の人生にどのような価値を与えるのでしょうか。子どもたちに一生「ずる」して過ごす習慣を身につけさせますか?そういう人生観を持たせますか?ごまかしの成功体験を持たせますか? 私はそのような方法を教えるのではなく、「英語の塾」として「英語」を身に付けてもらうことに主なパワーを使います。 (2020年12月)

 


提供するのは未来の経験」

 

 ビジネスというものは、顧客にvalueを提供して対価を得るものです。与えるvalueは、例えば鉛筆のような「品物」であったり、または演劇のようなサービスでは「経験」がvalueであったりします。その場でのワクワク感とか驚きとか感動です。

 

例えば上質の料理を提供するレストランでは、料理という「品物」を提供するだけでなく、その場での「経験」も提供します。その雰囲気の中での食事という、「思い出」づくりに一役買うというのが提供するサービスです。

 

では、英会話学校が提供するサービスは何でしょうか。「英語でおしゃべりした」という、その場での「経験」でしょうか。「楽しかった」という「思い出」でしょうか。確かにそれはそれで立派なサービスであり、顧客(生徒さん)はその対価を支払う価値があるとは思います。

 

でも、顧客にとってもっと価値があるサービスは、単におしゃべりを提供したり、知識を提供するだけではありません。それは、「未来の経験」を与えることです。「楽しいレッスンだった」で終わらせるのでなく、授業の中で身についた知識や技能によって、それがなくてはできなかったであろうことを生徒さんたちに、この先経験してもらうことです。

 

それが大きな価値になるかどうかは、その後の生徒さんの行動次第ではありますが、知識を大きな価値に変えてもらえるような気持ちになってもらうのも、塾の重要なサービスのひとつだと思います。

 

私の英語塾は、顧客である生徒さんたちに「未来の経験」を売るのが重要な仕事だと認識しています。価値は必ず見つけてもらえると思います。そしてその価値は無限に広がります。

 


第二言語の運用

「生活の中の裏技」みたいのがあって、聞いたときは「便利そうだな」などと感じるけど、たいていはいずれ忘れてしまいます。でも、その理屈が理解できたり、自分の生活に関係あったり、それを実際に何回かやってみたりしたら、それは記憶に残るし、実際の生活に定着することもあります。英語の単語や文法にも、同じようなことが言えるんじゃないかなと思います。

聞いたり読んだりしただけの知識は、時間がたてば消えていきます。既存の記憶や定着した知識と連結するものだけが、記憶に残っていくのです。理屈を理解する作業でそうした既存知識や常識と結びつくし、それが自分の生活に関連していれば関連知識と結びつきやすくなります。実際に使ったりして、さらにそれを定常的に使うようになれば、それが頭にしっかりと定着します。

 

例えば単語をおぼえようとするとき、単語カードやひとつの例文でおぼえようとするのは、きっかけとしてはとても良いこと。でもそれをきちんとした長期記憶にとどめ、かつそれを「使える語」にするためには、既存の知識にしっかりと結び付けなければなりません。単語カードでいったん頭の表層に貼り付けたら、それがはがれて消えてしまう前に、自分のことばとしてactiveに使ってみるのもいいし、passiveでも聴いたり読んだりする中で何度もその語に接触するのも良い;それが「使える語」にする良い方法だと思います。

 

知識として頭に入れるだけでは不足。それは車を運転するときに「アクセルペダルは右」「ブレーキは真ん中」「クラッチは左」という知識を頭に入れているだけです。障害物を見つけたときに、「ブレーキは真ん中だから...」と考えていては車を急に停止させることはできません。反復することによって、「車を停止させる作業」を体でおぼえなければならないのです。

(2017年7月30日)

 


学習;現状・ゴールそしてリソース

 

「現状」と「ゴール」を結ぶ線、それを埋めるのが「学習」。 その学習にはリソースが必要です:費用と時間とそれから自信とやる気、それを助ける人と、優れた教材。 今はネット上や書店に優れた教材が豊富にあって、費用もそれほどはかかりません。リソースとして問題となるのはやはり時間でしょうか。それと、適切な支援者が得られるかどうかです。

 

それらのリソースが足りない場合は、ゴールを設定しなおさなければなりません。達成日を遅らせるとか、達成レベルを下げるとか。達成の範囲を狭めるとか。場合によっては、一時的に当面のゴールを目指すことにして、達成後にさらにその先のゴールを目指すことにするとか。

 

時間が豊富にあるのなら、例えば一日に3時間も4時間も使えるのなら、大量の英語を取り込んで、なるべく自然な英語を獲得することは可能かも知れません。それで成功した人もいて、その人はそれが唯一の方法だと説くかも知れません。

 

ただ、多くの学習者はそのようなリソースを持ち合わせません。時間で言えば週にせいぜい2-3時間の人もいます。その場合、リソースが足りないからと、すべてを諦めなければならないのでしょうか。ほどほどのリソースでほどほどのレベルを目指すことはできないのでしょうか。私はそれは可能だと思います。

 

「現状」と「ゴール」と「リソース」はそれぞれのケースで異なります。得意不得意も人それぞれです。ですから達成へのやり方もひとそれぞれのはずで、万人に効く黄金ルールはありません。

 

うまくいった人も、その人の「現状」と「ゴール」をつなぐための「リソース」があったからこそ、それらがうまく整合したからこそ、ゴールに行けたはずなのです。その成功者はその方法を他の学習者に教えたがるかも知れません。でも、その事例とまったく同じ事情の人は、この世にはいないはずなのです。その成功者のやり方が、別の学習者にぴったりと当てはまることの方が稀なのです。

 

そのことを理解していて、その人の現状と事情に合った方法を見つけられる人が、よい支援者なのだと思います。学習者にとっては、それがもっとも大切なリソースなのかも知れません。そして学習者はゴールに向けてのリソースを捻出するために、少しだけ生活のスタイルを変えるようにしてみるのが良いと思います。「がんばる」という気持ちだけでは行動は変えられません。起床の時間を少しだけ変えるとか、食事の時間を短くするとか、決まった時間を確保するとか、そういう小さな変更が、意識の変化を生むかもしれません。

(2016年11月19日)

 


学びを家屋建築に例える

 

TEDプレゼンテーション"Let's teach for mastery — not test scores"の中で、学習の過程を家屋建築に例えています。


学校の教育は「時間ベース」。ある期間が過ぎたらテストをして、全部できていなくても進級。それがどんなことをしているかということを、家の建築に例えている話。「おとなの学習」についてもう少し考えてみます:

 

土台が完成する前に「期間が過ぎたから」という理由で家を建て進めたら、崩壊するのは当然です。数学なら代数でしくじっても微積分で抜き出ることは可能かもしれないし、歴史なら弥生時代がわからなくても安土桃山時代なら理解できるかも知れません。でも、英語では、例えば過去形が理解できないうちは過去完了形や仮定法過去は理解できません。実質的にはそこで足踏みになってしまいます。つまづいた人はそういう人なのだと思います。

 

学校の授業であれば「時間ベース」もしかたなかったかも知れません。でも、大人の学習は「成果ベース」が可能です。背伸びをしたからと言って、早くゴールに届くものではありません。

 

ただ、

ゴールはそれぞれ異なります。時間をかけても立派な家を建てたい人もいれば、雨風をしのげる家をできるだけ早く建てたい人もいます。とりあえずの家を建てて、あとで増築していきたい人もいるでしょう。

 

それに、

現状もそれぞれ異なります。いきなり途中から飛び乗ることは良くありません。でも、ある程度基礎ができている人ならば、わざわざ最初から築きなおす必要はありません;補強をすればいいのです。壁に穴があいている人もいるでしょう;板を貼ればいいのです。早く運用を開始できるようにして、英語でしか知れないことを知ったり、英語でしか味わえない感動をする、いちばん美味しいところを味わい始めなければ面白くありません。

 

学習は、現状とゴールの隙間を埋めるために行います。現状とゴールを知らない人に、その設計はできないのです。

(2016年10月20日)

 


クリケットのルールと英語の文法

 

子どもの頃、近所の子ども同士でゴムボールの野球をしてました。小さかった私はルールを知らず、大きい子たちが言う「ノーダン、ワンダン」ということばの意味も知りませんでした。

 最も不思議だった用語は"チェンジ"。大きい子が「チェンジだ」と告げると、わけもわからず攻守の交代をしていました。

 

さて、

イギリスに旅行に行くと、テレビでクリケットの試合の放送を見ることができます。はじめはまったく理解できませんでした。しばらく見ていればきっとわかるだろうと思って見続けましたが、やっぱりわかりません。ちんぷんかんぷんで退屈です。

 

 

もう一度小学校のときの話に戻ります。

 

ある日、「3回アウトになったらチェンジだよ」と教わりました。それからアウトカウントを数えるようになって、大きい子たちといっしょに「one down!」と得意になって言うようになりました。「change」も楽しくなりました。 あとになって、クリケットのルールをちょっと知りました。そうすると試合をみていられるようにはなりました。(依然、たいくつではあるけれど)

 

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英語学習の話をします。 英語を学ぶときのちんぷんかんぷんは、ルールを知らずにクリケットのゲームをみるのと似ていると思います。見続けることは苦痛です。

 

ちんぷんかんぷんを延々聴きつづけるなんてことはできません。ちんぷんかんぷんを延々音読しつづけることはできません。従順な子どもにはできたとしても、大人にはできません。

 

自然にわかるようになろうとして、実際の英語の中から用法の類似性や共通性を見つけて類推できるようになるには、とてつもないくらいたくさんの量の勉強と、何年もの時間が必要だと思います。

 でも、野球やクリケットのように、一旦ルールを知れば、どんどんわかるようになります。そうなれば、取り組む姿勢も気持ちも変わっていきます。

 

中高での授業の時間は全部で約900時間。「それだけやったのに話せない」などと言われます。でも、最初に授業に乗り遅れた子どもは、残りの時間をちんぷんかんぷんで過ごしました。クリケットの試合を、延々見ていたのと同じです。

 900時間勉強したのではなく、900時間、苦痛の中で座っていただけなのです。 早期に学習を開始しても、乗り遅れる子は乗り遅れると思います。その場合、苦痛の時間が早期に始まり今までよりも長く続くだけです。 学習年が進むにつれて、多くの子どもが英語への興味を失うのが実情のようです。

 

 

 

 

興味を失った生徒は、あとはただ教室に座っているだけになります。ということは、早期に学習を開始した分、早期に興味を失います。興味の部分を直さない限り、実質の英語学習年数や量は、増えることはないのです。 英語の文法は、パズルを解く攻略本のようなものです。だからそれは、便利で楽しいはずのものです。呪文のような用語を押し付けるためのものではありません。その攻略は、順を追って進めなければなりません。でも順を追ってさえいれば、着実にゴールに進むことは確かなのです。

 


新刊に関する思い

 

「学校での教え方が悪い」「うそを教えている」などと言う人がいます。 私の本では、教科書に書いていないことをたくさん書いていますが、それは決して学校での勉強を否定しているのではありません。

 

学校での学習は、いわば促成栽培なので多少の強引さや無理もあり、それにはおのずと壁があります。その「多少の強引さ」のことが、ときどき非難の対象になるのです。でもそれはある程度しかたのないことで、その強引さや壁のことを、先生も生徒も認識していることが大事だと思います。

 

私はその壁を越える方法を探しています。しかもそれを、楽しく越える方法を探しています。

 

英語を訳語で考えていたらなんとかなると思う子どもが多いです。確かにほどほどなんとかなります。でもすぐに壁にぶつかります。でも、それはぶつかるべき壁であって、間違った道をたどってきたわけでもないし、それは越えられない壁でもありません。先生はその壁の存在を意識して教え、子どもたちがその壁を越える手助けをしなければなりません。

 

私の本を、その壁を越えるための道具として使って欲しいのです。先生にも生徒にも、そして独習者にも。訳語では理解しきれないようなことばの不思議を見つけて、それをいっしょに解いていくことで、その壁を越えて欲しいのです。

 

ことばって面白い。英語も面白い。しかも不思議。そういうことを味わいながら、たくさんの「なるほど」を見つけて欲しい。「面白いから友だちに話そう!」なんていうことを見つけて欲しい。そういう気持ちです。

 

イラストをたくさん描きました。楽しくなるように、かわいく描きました。それらのイラストは、ほかの本のようなただの「挿絵」ではありません。「解説」の機能を持たせた、「概念的な図解」です。自分でイラストを描ける私だからこそできたことだと思います。文章とあわせて読めば、きっと理解が深まります。イメージがつかめます。英語が楽しいと思えるようになってもらえるんじゃないかと思います。

 

ベテランの清水先生と、私の組み合わせだからこそできた本だと思います。中学生から大人まで、かなりの上級者にまで、たくさんの「なるほど」を見つけていただけると思います。ひとりでも多く、「英語好き」を増やしたいと思います。 ぜひ書店で手にとってみてください。

 


おとなに必要な英語学習

 

大人に必要な学習ってなんでしょう。

ある人に「一般的に、なぜ英語を話すのが苦手だと言われているんだろう。何が必要なんだろう。」と質問しました。答は「使う機会がないからかな。だから使う機会を増やすことが大切」。ほんとうにそうでしょうか。

 

頭の中にないものは、どんなにがんばってひねり出そうとしても出てこなない。何百回機会があったとしても出ない。話せないのは、ない知識は出せないからです。

 

私が子どもの頃、子どもが好きなスポーツと言えば野球。野球ならルールも知っているし、送りバントとかヒットエンドランなんかも知っていました。プロの選手のまねをしたり。それは、テレビで見て「こうやるんだな」と知っていたからできたのです。

でもサッカーはそうは行きません。ゴールに球を蹴りいれればいいことは知ってても、みんなが球の周りに群がってしまい試合になりませんでした。ラグビーもそうでした。実際にどう展開するのかとか、役割がどうだとか、そんなの知らないでやっているのでそうなってしまいます。テレビでの試合の放映も、当時はプロ野球ほどはなかったし。

 

基本のルールを習っても、「実際にこうやったらいいんだな」というものをインプットしないと、サッカーもラグビーも、試合になりません。それは英語だって同じ。実際に見たり聴いたり読んだりしないと、自分で使えるようにはならないと思います。見たり聴いたりしたことが知識となって、それで自分も使えるようになるのだと思います。

 

ある人が書いていましたが、「小さい子供がこんな英語の本を読んだとかいう話はきくけど、中高生以上が洋書を読んでるとか、そういう話はほとんどきかない」

ほんとですね。中高生が読むのは、点を取るための参考書や問題集なのでしょうか。それじゃ面白くないし、興味も持てない。「実際に使うぞ・使えるぞ」という実感もわかない。ただの点を取るための学習で終わってしまいます。

 

exerciseという語の原義は、「習ったものを実際に表に出て(=ex)使ってみる」。

授業で知った知識を使って、自分が読みたいものを読んでいく。そういうのが本当のexerciseだと思います。中高生や、そして社会人に足りないのは、そういうexerciseなんじゃないかと思います。問題集じゃなくて。

 

話すことができないことの要因には、そういうexerciseの不足があると思います。勉強のための多読とか、点を取るための速読とかじゃなくて、reading for entertainment,とかreading for pleasure。中学生は中学生なりに、高校生は高校生なりに、成人は成人なりに、そういう楽しみを持てば、英語が好きになって、英語がもっと勉強したくなるんじゃないかと思います。

 

学校は、そういう機会や本を提供できる場であって欲しいし、その手助けのできる先生であって欲しい。私も、それができる先生になりたいと思っています。

 

 


バカの壁、英語の壁

 

大西泰斗先生の著書に「英文法を壊す」というのがあります。(読んだのはだいぶ前なので内容はあまり憶えていませんが、)あれは学校で習う英文法を壊しているわけではありません。

 

あれは、学校で習った英文法を基に、そこからもっと深く進むので、壊しているのは「英文法の壁」です。英文法の限界の向こうに行こうとするものです。

 

学校の英語の授業では、「明示化」が行われます。文法を単純化して説明します。単語を、日本語に対応する「訳語」で習います。それら明示化によって、ある程度のレベルまで手っ取り早く行けるのです。

 

その壁が近づいてくると、そこが終着点だと勘違いする人がいます。その壁の中ですべてのことが理解できると勘違いする人がいます。「そんな意味は辞書に出ていない」とか、「それは文法で説明できない」とか考える人もいるし、「高校までに習ったからもう文法は十分」だと思う人もいます。「継続・完了・結果・経験」だとか「時間・距離・天候・明暗」だとか、そういった基本ルールの枠の中から出られない人が大半です。その枠の中にいる限りは、「英語は簡単」です。Yahoo知恵袋などでの問答は、多くの場合、その「壁の中」の議論をしています。

 

確かに、その壁の中だけで、素地はできます。でも実はそこからが長いのです。

「通じたね」「よかったね」がゴールの場合には壁の向こうに行く必要はありません。TOEICで800点台を取ることだけがゴールなら壁の向こうに行く必要はありません。しかし、ビジネスで使おうと思うなら、正しく発信したいと思うなら、その壁の向こうに行かなければならないのです。

単純化した「明示化」では説明できないことがらを、実際の文章や会話に触れ、そのたびにきいたり調べたりしながら、「明示化ではカバーされなかったところ」を切り開いていくのです。

 

その壁の存在に気づいている人は、勉強が進んで壁が近づいても、その勢いを緩めません。「訳語」を知ってその語の「意味」を知ったと勘違いをせず、辞書の例文や解説を読んで、その語の「ほんとうの意味」や「語法」を理解しようとするのです。文法をおぼえたら、機械式にそれに従順になるのではなく、実際のその使い方を蓄積していくのです。

 

学校で教える側も、その壁を意識しているかどうかが重要になります。学習者は「なぜ?」を知りたがります。「理由なんてない。まるおぼえすればいい。」というような指導では、生徒は壁は越えられません。それどころか壁から逃げて離れていきます。多くのnative speakerはその壁の存在を知りません。母語においてはその壁は存在しないのです。そのようなmonolingualのnative speakerには、それを教えることはできないのです。

 

学校の文法で説明できない「なぜ」を解く。解いてそれを生徒に説く。先生というのは、それができなければならないのだと思います。たとえ学校では壁の中だけのことしか教科書になかったとしても、壁の近くに至った生徒は、壁の存在に気づきます。先生は、その壁の越え方を、知っていなければならないのです。教えられなければならないのです。すなわち、

自らが壁を越えていなければ、自ずと生徒の限界が決まってしまうのです。

 


第二言語を学ぶ/教えるって

 

職業として英語を教えている方にとっては当たり前のことなのかも知れないけど、基本的で素朴な疑問:

?第二言語を教えるって、どういうことなんだろう?

?第二言語を学ぶって、どういうことなんだろう?

 

単純に言えば、「明示化」なんだろうな。「見えないものをわかりやすく示すこと」

 

まるでさっぱり分からない言語を、なんとか理解できるように説明する。

その方法としては、身振り手振りもあるだろうし、イラストを見せる方法もあるだろうし、または母語を使って噛み砕いて説明する方法もあるでしょう。

 

母語(つまり日本語)で説明するには、単語の意味は「訳語」で教えるのが早いだろうし、文章は「訳文」で考えるのが手っ取り早いと思います。文法をきっちり母語で説明することも。文法は頭の中の複雑なルールを、単純化して明示化したものだからです。

 

でも、教える側も学ぶ側も、それらは「明示化」の「手段」であることを忘れてはならないと思います。

「明示化」は母語でするのが絶対に近道。吸収が早いから。ただ、「訳語」や「訳文」は効率的ではあるものの、ほんとうのゴール到達前に行き詰ります。そこから先へは別のアプローチが必要ってことだと思います。

 

その行き詰まりのところでの間違った発想は

「学校の教え方が悪いから行き詰った」

「文法的に説明できないなら文法なんていらない」または

「文法的に間違ってるからnative speakerが話すこの英語は間違ってる」

「やっぱり口語をやらなきゃだめだ」

など

 

でも、そこを難なく乗り越えられるひとは存在そます。ことばによる明示化に限界があることを分かっているひとは言い訳せずに先へ進めます。英語を実際に使おうとする人、英語で何かを調べたり読んだりする人は、そんな限界をさっさと自分で乗り越えてしまいます。

 

「訳語」「文法」といった「明示化」は言語理解の大きなヒントではありますが、問題はそこから先。「点数が上がらない」ことばかり見つめていないで、実際の英語を読んで理解しようとしたり、使ってみたりすること。そうすれば「明示化」の基盤をもとにどんどん先に進めますから。点数がゴールじゃなくて、理解や実際の使用がゴールならばです。

 

そして/または

これまでとは違う明示化の道を探すこと。私が追求してるのがこのアプローチかな。単語を視覚的に理解しようとしたり、語源をたどって単語同士を結びつけたり、一般の文法で説明しきれない不思議を解いたり、それを視覚化したり。それが私のやろうとしている明示化です。

 


第二言語を教える明示化の方法

 

幼児は1歳くらいで言葉を話せる身体(声帯)になりますが、そのあとちゃんと話せるようになるまでには何年もかかります。それに比べて第二言語の習得は、それより速い場合があります。なぜでしょうか。それは「言語の脳の仕組み」が出来上がっているからです。第二言語を学ぶときには、幼児が自然に言語をおぼえる方法と同じことをやっていてはだめで、「理屈で理解する」方法が役立つし、早いのです。特に大人になってから学ぶときは。まして日本にいながら英語を学ぶときにはそうでなければなりません。

 

「鳥」という語の定義をしてみよう。たぶん「羽を持ってて空を飛ぶ動物」と定義しますね。母語の獲得の際には、たくさんの鳥を見て、その共通点を無意識に自然に見つけて、「あれが鳥」というふうに理解する(カテゴリー化する)のです。

一方、第二言語の場合には、「空を飛ぶ動物」という単純化した定義をします。そうすれば早くおぼえられますから。これがトップダウンのアプローチ。でも、コウモリは空を飛ぶけど鳥じゃないし、ペンギンは空を飛ばないけど鳥なのです。最初に習った「空を飛ぶ動物」という定義は嘘だったのか?と思うわけです。でもそれは違います。その最初の「大胆に単純化」した定義による「明示化」によって、大部分の理解を築いたわけです。大胆な単純化なのでそこから外れるものもあります。その外れたものがコウモリやペンギンなのです。単純化による大枠の理解のあとにボトムアップのアプローチ;すなわち大量のインプットをして、その中で細部を修正していくというやり方、それがおとなになってからの第二言語修得の方法です。(「大胆な単純化」は、悪い意味では「過度の一般化」などと呼ばれます。)

 

中高の学校の授業の教科書の範囲では、その大胆で単純化した定義しか学べません。学習指導要領にある「素地を築くこと」が中高の教育の目的ですから、それはそれで構いません。コウモリとかペンギンのことは、あとで少しづつ理解していけばよいのであって、「中学の英語は嘘だ」というのは早合点です。学校で習う文法には大胆な単純化があります。大胆だから「嘘」のような例外も出ます。だからといってそれ自体を否定してはいけないと思います。

まず、トップダウンで外形を作って、細部はインプットによるボトムアップや個別の学習でおぼえて定着させていく。それが効率的な第二言語の学び方だと思います。

 

品詞に分けたり、自動詞と他動詞を分けたりするのも、そのカテゴリーわけのひとつ。そのカテゴリーの中の共通のルールをおぼえれば手っ取り早いのです。「自動詞はこう使う」「形容詞はこう使う」、「授与動詞はこう使う」などのように。でもそこにはコウモリやペンギン、またはクジラやイルカがいますが、それはあとからおぼえて修正していけばよいのです。

 

訳語というのも「明示化」の方法。語彙を増やすには訳語でおぼえるのがてっとり早いのです。でも、それだけではダメで、その使われ方を何度も何度も繰り返して触れて(インプット=ボトムアップ)、それでその単語の本当の意味や使い方を知って記憶に定着させていかなければなりません。

 

例えば「予約」を英語でなんというか。訳語でおぼえているひとは"reservation"と思います。ところが辞書をひいてみると、reservationは「部屋や席の予約」とある。歯医者の予約はreservationではないことがわかります。「予約=reservation」とおぼえるのは、とっかかりの明示化としては悪くはありません。でも、ほんとうの意味や使い方は、辞書を読んだり、例文に触れたりしながら身につけていきます。トップダウンとボトムアップの組み合わせが効果的だと思います。

 

学校で習う明示化(文法や訳語)は重要でも、それがすべてだという考えは持ってはならなりません。習った「明示化」は、大胆な単純化でることを十分認識し、コウモリやペンギンやイルカやクジラ的な修正をしていくことが必要です。継続的な学習と、多くのインプットによって、それが成り立ちます。

教える側は、そのプロセスを十分に理解して、それを学ぶ側に伝えていかなければなりません。