New 評価とテスト

私は子どもの頃、人と話すのが苦手で、思ったことを人に言えなかった、学校の授業で手を挙げて発言するなどということはまったくできなかった。だから周囲から見れば「できの悪い子」だ。担任の先生が私のそういう特性のことをよく理解していない場合は成績もよくなかった。ところが自分のことをよく理解してくれる先生が中にはいて、そういう先生は高い評価点をくれ、それによって事情を知らないクラスメートに驚かれることもあった。そういう先生には今になって感謝を感じる。

 

中学生になっても性格は変わらなかったが、中学では授業態度というより試験の結果が重要視された評価になったようで、そうなると安定して高い評価点をもらえた。

 

でもその「テスト」でさえ、いま思えば受験する子との相性というのがあると思う。きっと高い理解力がある子でも、問題との相性が悪かったり、本番に弱かったりする理由で、高い評価がもらえない人もいると思う。テストはある意味、「あるひとつの切り口」でみただけの評価に過ぎない。本当の実力が反映されない可能性がある。

 

学校の授業やテストでは、ひとりの先生が大勢を見る。それと違って、私の塾では一対一で向き合う。どの程度理解しているかとか、どう進歩しているとかは、学校のテストやTOEICや英検などよりも正確に分かる。学校のテストではひとつ答えを間違うとだいぶマイナスになってしまうこともある。そんなプレッシャーによりうまく行かない人もいると思う。

 

私の塾では私が生徒さんの実力をちゃんと知っている。あるとき多少間違えたって、長い目で見ているから、「ちょっと間違えちゃったんだな」と思う程度で、評価にはぜんぜん影響しない。だから、恐れないでいい。間違えていい。わからなかったら聞けばいい。ほかに誰もいないんだから、恥ずかしがる必要もない。

 

(2023年1月9日)

 


進歩のステージ

最初は何だって難しいです。でも慣れてくると、それまでできなかったことが嘘みたいに思えるほど楽になります。楽しく感じられるようになります(♪)。

そんな楽しさを感じてそれを繰り返しながら、次のステージも併せて挑戦します。次のステージの新しい知識を入れるのです。文法とか新しい単語とか。

新しい知識注入はあまり楽しくないかも知れません。だから、その作業は楽々できる楽しいことの中に織りまぜます。例えば楽々を7割、挑戦を3割、みたいに。

 

やがて、その二段目のステージも楽々できるようになってきます(♪)。最初はできなかったことが嘘みたいに思えてきます。そしたらそれを繰り返して楽しみます。

そして、そのまた上のステージのことにも挑戦します。さらに進んだ文法とか語彙とか。

例えば複雑なことを同時に処理するのが無理だったら最初は作業を分割して練習したりしながら。そしたら・・・

やがてそのステージのことも楽にできるようになります(♪)。前にはできなかったのが嘘みたいに感じるようになります。

 

要約すると・・

簡単に思えるくらいのことを繰り返して楽しみます。「多読」なんていうのはそこに入ります。運用の練習です。そうやっていくうちに定着していきます。

それをやりながらも、次のステージの勉強をします。精読や文法・語彙の学習なんていうのはそこに入ります。知識の習得。やがてそれが簡単に思えるようになってくるので、こんどはそれを繰り返します。

 

そうやって一段階ずつ上がります。進歩というのはそういうことだと思います。

(2018年2月18日)


繰り返すこと

 

繰り返さなければ忘れてしまいます。

繰り返せば記憶は持続します。

いろいろな状況で繰り返せば、記憶はより強く定着します。

 

記憶に残すには、「何時間がんばったか」よりむしろ「生活の中で何回想起したか」だと思います。

 

「これって英語でなんて言うんだろう」「あっ、そうだった」「なるほど、そう言えばいいんだ」

何時間勉強するよりも、そういう繰り返しが重要なのだと思います。

 

(2018年1月29日)


学習は「今」と「ゴール」を結ぶ線

 

広い海に浮かんでいるとします。どこかにたどり着きたい。そんなとき何をするでしょうか。

まず、自分の場所を知ります。そして行きたい場所(目標地点)を定めます。そしてその二点をつなぐ線を地図上に引きます。そしてその線をなぞって進みます。その「なぞって進むこと」が学習です。

 

自分の場所を正しく知れば、ゴールに一歩近づきます。ゴールを明確にすれば、方向が定まります。二点をつなぐ線は「計画」です。そしてそれを「なぞって進む」ことの実行が「学習」です。

 

その「線」は人それぞれです。なぜって、今いる場所もゴールもひとそれぞれだからです。実行にかけられるパワーも、許される時間も、ひとそれぞれです。ですから、誰かほかのひとでうまくいった航海術は、参考にはなったとしても自分に効くとは限りません。まず第一に自分の「今」を見つけて、「ゴール」を明確にすることです。

 

テストはときに楽しいものです。自分の「今」がわかるからです。ゴールへの線を修正する材料になるからです。いままでにどれだけ進んだかの「証(あかし)」になり、それがエネルギーになるからです。

 

漕いでも漕いでも進んでいないように思えるときがあります。でも、そう見えるのは、自分自身だけかも知れません。周りから見ればちゃんと進んでいる。目標に対してまっすぐに進んでいるときは、ゴールはあたかも止まって見えます。気づけばきっと、ゴールは近くにあり、そのときにはきっと次なるゴールが見えていることでしょう。

(2016年10月19日)

 


9イニングの向こう

 

若い人の中には、英語ができる先輩たちを見て、「自分も何年かしたらああいうふうに話せるようになるだろうな」とか「あのひとは何回もこういう場を経験して、慣れてるからできるんだ」と思う人がいます。英語が苦手なひとの中には、仲間の様子を見ながら、「あいつは英語が得意でいいな。うらやましい」と思う人もいると思います。

 

場数を踏めば、その分確かに技術は向上するかもしれません。野球で言えば、一試合5回打席が回って、100試合で500打席。500回バットを振ったら、その回数だけの経験は積めるでしょう。

若い選手はそれを見て、「僕も試合に出してくれたら、いつかあの先輩のように打てるようになるのに」と、そう思うかもしれません。

 

でも、その先輩には、「9イニングの向こう側」があるのです。

 

元ヤンキース選手の松井さんの、巨人軍新人時代の寮の部屋の畳が、寮に展示されるようになったと、だいぶ前にニュースで見ました。その畳は、繰り返しの素振りによって、表面が擦り減ってしまっているのです。

 

一本のヒットの陰には、何百回の素振りや壮絶なトレーニングがあります。ただ試合に出るだけでは、ただ打席の数を重ねるだけでは、先輩のようにヒットは打てないのです。

「9イニングの向こう側」が見えない人は、「自分は向いてない」と早合点してしまうのです。

 

なぜ、松井さんは、グラウンドでだけでなく、寮の部屋で素振りをしたのでしょう。

試合で打てなかった場面を考えながら、ふと解決方法が思い浮かんだときに、その場で素振りをしたのかも知れません。翌日の対戦相手のことを考えて眠れず、起きあがって対戦をイメージしながらバットを振ったのかも知れません。

 

試合での真っ白なユニフォームの向こうには、泥だらけの練習着があります。きれいな手袋の下には、マメとタコだらけの手が隠れています。

 

先輩の、一見流暢な英語の向こうには、練習や、暗記帳や、悔しくて眠れない夜があります。書き込みだらけの原稿が、今もポケットに入っているかも知れません。手垢で汚れた辞書がかばんにしまってあるかも知れません。

 

ふとした拍子に「これって英語で何て言うんだろう?」という疑問を持って辞書を引き、耳にした気になるフレーズをメモに取る。そんな繰り返しが、能力を高めて行きます。擦れた畳に似ています。

 

「自分は英語に向いてない」と思う人は、「9イニングの向こう側」が見えていないだけなのかも知れません。

その努力の機会は、打席に呼ばれたときには既に、通り過ぎてしまっているのです。

先輩の姿を眺めているだけでは、ただ普通に、時間が過ぎただけで終わってしまうのです。

 


英語学習の大人の強みと弱み

 

英語は子供の頃にはじめた方がよいなんていいますが、私は「はじめた方が良い」かもしれないものの「大人になってからでは遅い」とは決して思いません。

 

子供の頃から始めた方がいいという理由のひとつに、「臨界年齢」というのがありますね。簡単にいうと、ひとつの言語が完成してしまって、他の言語を受け付けにくくなる年齢があると言ったら判りやすいと思います。

 

それからもうひとつ。大人になってからでは記憶できる能力が衰えてしまっているという理由。それはそうかも知れないですね。

 

でも、そんなのは克服できると私は思うんです。大人には大人の強みがあるからです。自分自身もそうでした。

 

記憶の力は年齢とともにどんどん落ちます。ところが、会社の人々を見てみると、40代の人は20代の人よりバリバリ考えてどんどん仕事します。それは、脳自体の基礎能力によるものではなくて、それまでに入っている知識や経験を活用して、頭を使っているからですね。

 

同じことが、言語でもできるはずです。英語も日本語も、同じ言語脳を使うのですからね。日本語で培った論理能力や構成能力を、ちょこっと調整する方法を覚えて、それを英語でも使えばいいのです。その使い方は子供の頃から英語を覚えた人とは違いますよ。でも、早期バイリンガルと同じでなければならない理由なんてないのです。同じ能力を発揮できればそれでいいのですから。

 

 

文法を理性でおぼえる。おぼえることは子供と同じ、言語の規則性です。そのルールを、子供は天然で覚えますが、大人は理性によって養殖でおぼえます。大人は規則性を明示化したもの、すなわち「文法」をおぼえていくわけです。養殖でもそこそこ天然に近くできますよ。

 

それから語彙。それは、既に知っている単語とネットワークを築いていけばいい。ベテランが既存の知識と結びつけて、新しいことをおぼえるのと似ています。本質を知っているベテランほど強いですよね。その方が新しいことと結びつけやすいんです。表面上の知識だとうまく結び付けられません。

 

単語だって同じ。表面上の訳語を覚えるんじゃなくて、原義や語法などの本質を理解していけば、語彙のネットワークはどんどん広がります。それの助けになるのが、語源の理解。漢字の「へんとつくり」を理解しながらおぼえれば、語の本質が理解できます。

 

 

とはいうものの、大人には不得意なところがひとつあります。それは、「冒険心」。

子供は、いろいろなことを「やってみる」習性があります。幼いときにいろいろな失敗を繰り返して、それを修正することで、大人になってから重大な失敗をしないための、生存に必要な大切なしくみです。どんな動物にも備わっています。

 

一般に、大人になってからの失敗は、たいてい重大な悪い結果につながります。だから大人は冒険を避ける習性があるのです。でもその、生存のための習性が、英語学習には障害になるのです。

 

子供は、いろいろな試みや冒険の中で「仮説と実証」を繰り返します。「何をしたらどうなるか」を繰り返し実験します。子供を観察していると、夢中になって実験しているのを見ることがありますよね。

 

言語でも同じです。大量に聴いた音を分析して、「この意味か、あの意味か」と推測し、仮説を立てて、そして事実と照合・実証して、おぼえていきます。ただ聴いているだけではダメなんです。いろいろなことを口に出してみて、相手の反応を見て、「正しい言い方」を検証していきます。小さな冒険者は、そうやって言語を修得して行きます。

 

その「仮説・実証」の習性を失いかけた大人は、それを意識的に行わなければなりません。ただ、仮説の多くは、文法書や辞書に出ていますから、それが高い確度の実証の助けになるはずです。実際の英語に触れるとき、それの実証ができる機会を得ます。「なるほど文法書で書かれたことと同じだ」と。

 

そして、もっと大きな実証は、実際の使用機会です。「言った、通じた」、それが実証です。実証し損なって失敗することも多いです。でもそれは、次の実証の機会に活かせます。そうやって得た実証は、しっかりと自分に定着します。めげないこと、子供のように。

 

理性の使用と、仮説・実証。

大人の英語学習は、これを意識すれば、進むはずです。

 


「日本人の英語力」(マーシャ・クラッカワー著)

 

以前読んだ、「日本人の英語力」(マーシャ・クラッカワー著)の内容をもう一度確認する必要がたまたまあったので、ついでに、いくつかの記述をここに転記します:

 

"昔の日本人の英語は、発音がネイティブ・スピーカーなみというわけにはいかず、気のきいた会話表現などとは無縁だったかもしれません。しかし、平易な語彙だとしても、正しい文法で、ゆっくり確実に話すことで、国際社会の中で礼儀正しい大人として受け入れられていたのです。反対に、現代の日本人の中でも、yeahとかyou know(あのね)などを使えるのが英語を話せることだと思っているような人は、たとえ立派な肩書を持って海外に仕事に出たとしても、ただの子どものような扱いを受けるかもしれません。"

 

"英語を母語としない日本人が、非標準英語(スラング的なことば)を安易にマネするのは、やはりお勧めできません。発音が正しくなかったり、タイミングを間違えたりするなど、うまく使い慣れていないと、妙にその部分だけが強調されて変な話し方に聞こえてしまうからです。「本格的な英語らしく聞こえるから」という理由で、あえてこれらの表現を使ってみたくなる人も覆いと思いますが、これらはあくまでも「正しい英語としては認められていない言葉」です。それを使うことによって、相手にどんな印象を与えるか、十分考えてから適切に使うように心がけてください。"

 

"充実したコミュニケーションを望んでいる皆さんには、英語がペラペラであるかのように見えるStreet English(街角英語)やネット言葉に汚染されたInterneteseの英語ではなく、自分がきちんとした人間であることを証明できるような英語を話していただきたいのです。"

 

"文法の勉強はどこかでしっかりとやっておかなければなりません。

ですから、日本の英語教育としては、小学校で発音や単語に触れて英語そのものに慣れた後、中学でしっかりと文法を習いながら、読み書きの基礎を固め、高校でさらにそれを応用する方向に持っていくのがいいのではないかと思っています。"

 

「英語ペラペラ」への憧れが強いと、ビジネスの中では失敗します。私たちは、ビジネスの場では、知性を武器にしなければなりません。知性を伝えることができる言葉を、使わなければなりません。非標準言語よりも、それが先です。

 


日本語のしくみと英語のしくみ

 

「この語の意味は何ですか?」を英語で言うと?

 

1) What is the meaning of this word?

2) What does this word mean?

 

日本語は「○○はxxです」という言い方が80%と言われます。「彼はトイレ」の「彼」は主語として明確ですが、「パンは食べます」になってくると、「は」の前の語が主語とは言えません。

日本語は、名詞や動詞や形容詞を、助詞をはさんでてきとうにつなげれば、なんとなく成り立つ言語です。だからこの「○○はxxです」構文をおぼえれば、外国人でも結構、用が足りるようです。

 

日本人には「○○はxxです」の形が染みついていて、上の例では1)が出てきやすいようです。でも2)の方が簡素で自然です。

2)がすぐに思い浮かぶ人とそうでないひとはどこが違うのでしょう。

 

違いは、大量のインプットを経験したかどうかです。潜在意識も含めて、「ボトムアップ」として積みあがったものがあるからです。

第二言語習得には、ボトムアップとトップダウンの両方が必要です。ボトムアップというのは、積み重ね。英語を読んだり聴いたりすることでできてきます。

母語であれば、これでだいたいできるようになってきて、あとは実際に使う中で間違いを修正すること(モニタリング)などで完成していきます。

 

ですが第二言語ではそれほどの大量なインプットは通常はありませんから、トップダウンが必要になります。文法などによって、理屈で固めていくことです。ただ、トップダウンだけではできずに、ボトムアップが必要です。ボトムアップが足りないと、1)が最初に思い浮かびます。

例えば、意識的に「動作主体の英語」を意識すれば、ボトムアップによる効率も上がります。だから英語と日本語の違いを意識することが大切なのです。

 

大量に入れて積み上げることはひとりでできます。でも、トップダウンを助ける人がいれば効率的です。また自分で精読して文法や語法を意識することも、効率を上げます。ただやみくもにインプットすることではダメです。


英語の処理に必要なこと

 

「digital divide」ということばがあります。インターネットを使える環境にない人や地域が不利益を被ることをこう呼びます。同じように、英語の読めない人が不利益を被ることが起きています。これを「English divide」と呼ぶそうです。被害を被っているはずの本人は気づいていなくて、「知らぬが仏」の状態なのかもしれません。

 

「English divide」にならないために、英語で入る大量の情報をどうやって処理するかです。

 処理能力には3つあります:

1) 斜め読みして全体を理解する能力; skimming

2) 必要な情報を拾い読みする能力:scanning

3) 重要な部分を正確に理解する能力:intensive reading

 

どの能力も急には得ることができません。

 

母語のことを考えれば分かりますが、1), 2)は「回数」が必要であることは明らかだと思います。いきなり難解な文書で達成することは不可能で、簡単な題材で練習することが必要だと思います。

 

3) については、語彙力と文法力が必要です。

「語彙力」とは、「訳語に変換できること」ことではなく、その語がもつ「ほんとうの意味」や「語法」を理解していることです。

「この文章の意味が分かる?」と質問すると、ほとんどの人が「だいたい分かる」と答えます。「だいたい」があたまにつく理由は何かというと、「分からないところがある」ということです。何が分からないかというと、「その語がどの部分を修飾しているか」が分からなかったり、「itが何を指すか」が分からなかったり、「文節同士の因果関係」が分からなかったりするわけです。単語それぞれの意味は知っていて、それを並べてみてだいたいの「雰囲気」を想像できる状態のことを「だいたい分かる」と表現する人もいます。

 

その理解力こそが、英語の総合力です。「語彙力」や「文法力」がなければ、intensive readingまたは「精読」はできません。精読をしてはじめて「文法力の無さ」を痛感する人がいます。

 

例えば、ビジネスの場で、「契約書」を読むとしましょう。「だいたいわかる」では困るわけです。

詳細な業務指示書を読んで、「雰囲気はわかる」では困るわけです。

 

「精読」が必要になるわけですが、そのような「精読」を教える場は、世の中にはほとんどないと思います。精読のひとつのアウトプットは「訳」ですが、「訳読」は今ではだいたい否定的に言われています。「そんなことやっているから何年たっても話せるようにならないからだ」と。

 

確かに「訳」という結果だけを見ることは必ずしもいいことではありませんが、「精読」そのものは、必ず必要な作業です。その精読の作業を軽くすっ飛ばして「訳」の部分を見てしまうから、弊害が起こるのです。

 

第二言語を理解するために必要なのは「明示化」です。「(平易な文書で、または母語で)わかるように説明する」ということです。「訳」というのは、原文が何を意味しているかを「明示化」する一手法です。単語の訳語もそうです。文法もそうです;文法はネイティブスピーカーの頭の中で何が起こっているのかを「明示化」しているのです。

 

「訳」で明示化するのは、教える側にとっては楽な方法です。学ぶ側からしても「分かった気分」になることができて楽な方法です。「英語原文からの訳文」を評価することは(英文和訳力で評価する方法は)、英語力を計測する簡単な方法です。しかし、正確に英語力を計測できるかと言えばそうではありません。「雰囲気で推定してたまたま合ってた訳文」と「文法を完全に理解して書き上げた訳文」の区別がつかないからです。

 

ですから、ほんとうに必要なのは「訳読」でなくて「精読」という過程です。そこに自分の英語の総合力をつぎ込んで、それを鍛えるのです。その精読を繰り返せば、次第にその速度は速くなり、skimming力やscanning力がついてくると、私は思います。

 

だから私は、勉強会で「精読」をするのです。そこで総合力のつぎ込み方を知って欲しいのです。それに加えて、その場所以外で、自力で「繰り返し」をすることが必要です。それによって、三つの処理能力が鍛えられるのです。

 


なぜ文法を学ぶ必要があるのか

 

「文法」が嫌いな人がいます。「文法なんていらない」と思う人もいます。さて、そもそも「文法」って何でしょうか。

 

文法というのは、「語句と語句を結ぶ規則性」と考えたらいいでしょう。その規則性を、native speakerは知らないかというと、「知っています」。言語学者よりも知っています。言語学者は、native speakerの頭の中にある複雑な「規則」を明示化しようとして研究をしているのです。

 

native speakerはどうやってその「規則性」を獲得するのでしょう。

人間は生まれてからずっと、母語を聴き続けます。膨大な量のinputです。それを脳にどんどん取り込んで行きます。そしてその膨大な情報を、整理していくのです。ひとつの整理方法が類似した語句のカテゴリー分けです。

 

例えば単語と単語をカテゴリーでくくって、それぞれをネットワークでつなげて行きます。それらの共通性や類似性を見つけて行きます。文法(規則)で言えば、似たような使われ方をする単語同士をカテゴリーでつなげます。そして、文章の中でのその使用例を積み重ねて、その規則性を見つけます。そしてネットワークでつないだ類似の別の単語にも同じ規則が適用されるだろうと「類推」します。そして実際に使用したり、人が話すのをきいて検証したりして、それを定着させていきます。そうやって、カテゴリー化と類推を繰り返して、語彙や語法や規則の幅を拡張して行きます。それが母語の言語獲得です。それには大量のinputが必要です。大量のinputとそれを記憶する力が必要です。

 

そうやって母語を獲得した後、第二言語を習得しようとします。その際、母語を習得したときとは違う事情があります。ひとつは、記憶力が低下していること。もうひとつが大量のinputがないことです。

 

中学・高校の英語の授業で触れる英語の量は、母語を習得するまでに触れる量の500分の1か1000分の1です。それでは、母語獲得のときのような情報整理ができません。そのinput量で母語と同じように獲得することは「到底不可能」なのです。中高の授業で触れるレベルの英語の量なら、習得までに5000年くらいかかります。幼児の記憶力が仮にあったとしてもです。

 

ではどうすればいいのでしょうか。

 

母語獲得のように、大量なinputを整理して規則性を見つけていくアプローチを「ボトムアップ」と言います。

それと反対のアプローチ、すなわち規則性を最初に入れるアプローチを「トップダウン」と言います。

学校で文法を学ぶのは、この「トップダウン」のアプローチです。長年の研究によってわかってきた「規則性」を、最初に頭に入れてしまうのです。言ってみれば、「養殖」です。養殖の棚を最初に作ってしまうのです。そうすれば、カテゴリー化と類推の手間が大幅に省けます。それだったら5000年はかかりません。

 

「名詞」「形容詞」「副詞」「自動詞」「他動詞」...さらに「完全自動詞」「不完全自動詞」「授与動詞」「使役動詞」...そんなカテゴリー分けが、学習書には書いてあります。そしてその規則性が書かれています。それによって、類推ができて、どんどん使える語句が拡張していきます。そうなっていれば、inputに比例した英語力がつきます。すなわち、勉強した量に比例した能力がついていきます。

 

第二言語習得のための学習は、基本は自習です。英会話学校のレッスン時間を合計しても、たいした時間にはなりません。自習をしなければ、第二言語習得はできません。自習をしなければ数百年かかります。

 

 

目新しい語句が出てきたとき、英語辞典を引けばその語句のカテゴリーや特徴や使用例を知ることができます。文法がわかっていればです。辞書を引くたびに語句間のネットワークが広がり、能力が拡張していきます。文法がわかっていればです。文法の用語を知らなければ、学習書の内容は「不思議な呪文」で終わり、自習ができません。

 

確かに、文法用語を知らずにできるようになるひとも、中にはいます。少ないinputでも規則性を自分で見つけられるずば抜けたセンスを持っているひとです。でも、自分がそうであるかも知れないと期待するのはやめた方がいいと思います。もしそのセンスがあるなら、もっと早くできるようになっていたはずだからです。

 

文法なしで言語を憶えようとするのは、毎晩ぼんやり星を眺めることで宇宙の法則を学ぼうとするのと似ています。 


英語学習の中の、コウモリやペンギン、イルカやクジラ

 

以前、日本語をはじめて2年未満で上手に話せるようになった外国人留学生の日本語スピーチを観ました。なぜそんな短期間で第二言語をおぼえることが可能なんでしょうか。

 

幼児は1歳くらいで言葉を話せる身体(声帯)になりますが、そのあとスピーチができるくらいになるまでには何年もかかります。それに対して、第二言語の習得はそれより速くできる場合があります。上で言った留学生のように。なぜでしょう。

それは「言語の脳の仕組み」が出来上がっているからだと思います。第二言語を学ぶときには、幼児が自然に言語をおぼえる方法と同じことをやっていては効率がよくありません。「理屈で理解する」方法が役立ちますし、それの方が速いです。特に大人になってから学ぶとき、まして日本にいながら英語を学ぶときには。

 

たとえ話をします。

例えば「鳥」の定義をしてみましょう。たぶん「羽を持ってて空を飛ぶ動物」と定義すると思います。

 

母語の獲得の際には、「鳥とよばれる物体」を無数に見て、その共通点を自然に見つけて、「あれが鳥」というふうに理解します(「カテゴリー化」と呼びます)。こういうふうに積み重ねて築いていく方法を「ボトムアップ」といいます。

 

一方、第二言語のやりかたは、「空を飛ぶ動物」という単純化した定義のやり方に似ています。単純化してルール(文法や語法)を定義すれば、早くくおぼえることができます。これが「トップダウン」のアプローチです。大枠を固めてしまうんですね。

 

でもよく考えると、コウモリは空を飛ぶけど鳥じゃないし、ペンギンは空を飛ばないけど鳥です。最初に習った「空を飛ぶ動物」という定義は嘘だったのか?と思うかも知れません。でもそれはちょっと違います。

 

「空を飛ぶ動物」という定義は、「大胆に単純化した」定義です。単純化することで、わかりやすく「明示化」しようとしたのです。明示化というのは、わかりにくいことがらを、理解しやすいようにことばや絵で表現することです。単純であればあるほど、のみ込みやすいものです。

こうやって「明示化」することによって、大部分の理解を築くことができます。ただし、「大胆な単純化」をしたので、そこから外れるものもあります。それが、コウモリやペンギンに相当するものです。(その「単純化」が度を越すと、悪い意味で「過度の一般化」などと呼ばれます。)

 

中高の学校の授業の教科書の範囲では、その大胆に単純化した定義しか学べません。中高の教育の目的は「素地を築くこと」だから、それはそれで正しい方法だと思います。コウモリとかペンギンの類のことは、学校の外でで少しづつ理解していけばよいのです。中学の教科書の教えの中の「コウモリやペンギン」を見つけて、「中学の英語は嘘だ」というのは早合点です。学校で習う文法は大胆な単純化で、大胆だから「嘘」のような例外もあります。でもだからといってそれ自体を否定してはいけません。

 

中高の学習で、まず、トップダウンで英語の外形を作ります。そして細部は、読書や聴き取りなどのインプットによるボトムアップや、辞書で見出し語の解説を読むなど、個別の学習でおぼえて定着させていきます。それが効率的な第二言語の学び方だと私は思うのです。

 

中高の文法で、品詞に分けたり、自動詞と他動詞を分けたりするのも、そのカテゴリーわけのひとつ。そのカテゴリーの中の単語や句の共通のルールをおぼえれば手っ取り早いのです。「自動詞はこう使う」「形容詞はこう使う」、「授与動詞はこう使う」とか。各々のカテゴリーの共通ルールを理解すればいいのですから。ダックスフンドは犬だから柴犬と同じように「ワン」と鳴く、というふうに考えるのと同じです。

でもそこにはたいてい、コウモリやペンギン、またはクジラやイルカがいるのです。それはあとから順におぼえて修正していけばよいのです。

 

単語などの訳語というのも「明示化」の方法です。語彙を増やすには訳語でおぼえるのが確かにてっとり早いです。でもそれだけではダメです。その単語の使われ方を何度も何度も繰り返して触れて(インプット=ボトムアップ)、また辞書の解説や例文を読んで、それでその単語の本当の意味や使い方を知って、記憶に定着させていくのです。辞書には「この形容詞は叙述用法のみ」とか「しばしば複数形」とか、解説が書いてあります。辞書のその機能を使わずして、英語の学習はできません。

 

例えば「予約」を英語でなんというでしょうか。訳語でおぼえているひとは"reservation"とまず思うでしょう。ところが辞書をひいてみると、reservationは「部屋や席の予約」とあります。歯医者の予約はreservationではありません。「予約=reservation」とおぼえるのは、とっかかりの明示化としては悪くはないと思います。でも、ほんとうの意味や使い方は、辞書を読んだり、実際の使われ方に触れたりしながら身につけていく、つまりボトムアップとの組み合わせでおぼえるのです。

 

例えば「~している」はbe+~ingで表すと中学で習います。現在進行形です。でも、日本語の「~している」は「進行」を表す場合ばかりではありません。特に仕事の中ではよく出てきます;「問題ないことは確認しています」とか。進行形ではなくて、「すでに確証をとってある」の意味ですね。だから英語でいうときには、be+~ingにはならないのです。

 

学校で習う明示化(文法や訳語)は重要で、取っ掛かりとしては役立ちます。でも、それがすべてだという考えは持ってはなりません。中高で習う「明示化」は、大胆な単純化であることを十分認識し、コウモリやペンギンやイルカやクジラの類を見つけてその修正をしていくのです。継続的な学習と、多くのインプットによって、それはなされるのです。

(教える側は、そのプロセスを十分に理解して、それを学ぶ側に伝えていかなければならないと思います。)


「明示化」と「トップダウン」;busyという語を例に

 

"busy"という語、だいたいの人は知っていて、たいていの人は「"忙しい"という意味だ」と答えます。

でも実は、「"busy"=「忙しい」」  かというとそうではありません。「忙しい」は訳語のひとつ;すなわち、「busyという語は、"忙しい"と訳すと自然に意味が通る場合もある」ということです。「訳のサンプル」です。

 

例えば「小さい字がこまごまと入っている表」を"busy"と形容する場合があります。「お店が満席」といったときも"busy"。電話が通話中でつながらないときも"busy"です。

 

「忙しい」という語を国語辞典で調べるとわかりますが、「人を形容する場合」に使われるのが正しいのです。だからbusy townは「忙しい街」とは言えずに、「せわしない街」「人通りの多い街」などと表現するのが、日本語としては正しいのです。

 

以上から、"busy"=「忙しい」というわけではないのです。ただの訳語のひとつに過ぎないのです。

 

では"busy"の「意味」はどういうことかというと、「びっちり詰まってる」ことです。漢字で言えば「密(ミツ)」が意味も音も近いと思いますし、おもしろいことに「びっちり」も近いです。

 

文字が「びっちり」だったり、人が「びっちり」だったり、やることが「びっちり」だったり するのが"busy"の「意味」(語義)です。

 

この「びっちり」というのが、busyという語をわかりやすく説明しようとした「明示」の例です。訳語による「明示化」よりも正確です。これが「トップダウン」に使える「明示化」の例です。

 

学習するときは、この明示化した解釈を理解(トップダウン)した上で、ボトムアップ(インプット)をするのです。小説を読みながら、実際の会話をききながら、その中にでてくる"busy"という語に何度も何度も触れて、その蓄積で"busy"の意味や使い方を理解して定着させていくのが良いのです。

 

もしボトムアップだけでその語を理解しようとするなら、何百回も"busy"という語に触れなければなりません。母語の獲得のやり方と同じです。したがって膨大な時間がかかります。

一方、「びっちり」のようなわかりやすい「明示化」によるトップダウンがあれば、より少ないボトムアップで効率的に意味を定着させることができるのです。

 

もうひとつわかりやすい「明示化」の例を出します。"break"です。

”break"を英和辞典で引くと、(他動詞では) 「壊す」「割る」「折る」「裂く」「ちぎる」という訳語が書いてあります。 「そうか、こんなにたくさん意味があるのか」と思うのは早合点です。これらは「訳語」であるのであくまで「例」です。 ガラスの場合なら「割る」、枝なら「折る」、紙なら「裂く」「ちぎる」というふうに「訳語」を使いわけるのが日本語としては自然だということです。これら訳語に共通するのは、「連続したものをふたつ以上に分裂させる」ということで、これが"break"の「意味」(語義)です。 (注:多義語なので他にも意味はあります)

 

これをトップダウンとして理解して、その上でたくさんの使用例に触れながら定着させていくのです。

 

busyが「びっちり」なら、breakは「ばらける(barakeru)」。英語と日本語の音の感覚(音象徴)って、けっこう似ていることが多いです。

 

ソシュールという有名な言語学者は「シニフィアン(能記)」と「シニフィエ(所記)」という概念を考えました。ごく簡単にわかりやすく言うと、「シニフィアン」というのはことばとしての「記号の域の認識」で、「シニフィエ」というのはことばが指すそのものの「イメージ」です。(たとえば「犬」ならシニフィアンは「犬」という記号情報で、シニフィエは「ワン」と鳴く哺乳類としての実態のイメージ)

 

英語の場合、訳語で考えている範囲ではまだまだ「シニフィアン」の入り口です。英語の場合には「英語」→「日本語」の余計なプロセスが入ることがありますから、脳の中の手続きは複雑です。

英語で読んだり聴いたりして、それを「シニフィエ」に直結できるようになれば脳の負荷が大幅に減って、理解力が飛躍的に高まります。そうなるようになるためには、何度も言うように、「明示化」という「トップダウン」をした上で「ボトムアップ」作業を繰り返すことが近道だと思うわけです。